基本情報
1940年に銃後奉仕として開設された託児所(簡易保育所)の運営記録。小会決議・保育所案内・教会会議議案が残されている。
警防団会館焼失を契機として教会堂の使用を求められ、これを断ったことで生じた迫害の記録。遠軽町史と教会の役員会記録の双方に記されている。
時代背景
1940年は宗教団体法が施行された年であり、教会には「銃後奉仕」の担い手としての役割が期待された。1942年6月の木口牧師出征後、遠軽教会は無牧師時代に入り、礼拝も月一回に縮小された。この困難な状況の中で警防団会館焼失という地域的事件が重なり、教会は迫害的状況に追い込まれた。
託児所(遠軽簡易保育所)の記録
① 開設から閉所へ(1940〜1942年)
「銃後奉仕のため」という名目で開設されたが、小会記録その他の詳細な記録は残されていない。その後、無牧師となったためか一旦閉所した。
② 再開設と会堂徴用による休所(1944年)
南義子牧師の就任(1944年4月)と同時に再開設が決議され、7月から運営を再開した。しかし9月から12月にかけて会堂が徴用されたため託児所は休所を余儀なくされ、礼拝も牧師館で行われた。
③ 再開から敗戦へ(1945年)
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1945年5月 | 再開。受付90名、一日およそ65名 |
| 1945年7月 | 防空壕完成 |
| 1945年8月 | 国旗掲揚塔建設を予定していたが敗戦を迎える |
▲ 1945年の託児所の状況
敗戦直前には防空壕が完成し、国旗掲揚塔の建設も予定されていた。しかし8月15日の敗戦によりその計画は実現しなかった。1944年の教会会議議案には「国家総力戦に参加する意味をもって保育所を経営す。祈りと援助を頂きたし」と記されており、託児所運営が国家への奉仕として位置づけられていたことがわかる。
無牧師時代に起きた問題——会堂徴用と迫害
① 警防団会館焼失と会堂使用の要求(1943年9月5日)
1943年9月5日、警防団会館が焼失した。これを契機として教会堂の使用を求める交渉が持ち込まれた。遠軽町史にはその後の経緯が以下のように記録されている。
「警防団本部が焼失したため、『教会堂を貸せ』と言う交渉を受け、これに応じなかった教会を、非難する声が町中に起こり、このような迫害・苦難は敗戦の時まで続き、牧師達はスパイのけん疑を受けたこともあった。」
——遠軽町史より
② 1943年9月役員会記録
会館焼失直後の役員会記録には、教会側の苦慮した状況が記されている。
「会館全焼後、市街集会場及ポンプ置き場として教会合が最適との所として要望の声高々・・・一日も早く牧師を招聘し協力一致精神報国の方策を構ぜざれば此の方面要望が切実となり具体的に進展するやもしれず特急之が対策を善処せねばならむ事と考えて居ります。」
役員会記録からは、会堂使用の要求を断りながらも、その圧力の高まりに危機感を持ち、早急に牧師を招聘して対応策を講じなければならないという切迫した状況が読み取れる。「精神報国の方策を構ぜざれば」という表現には、戦時下での教会の立場の難しさが凝縮されている。
③ 迫害の継続
町史の記述によれば、こうした迫害・苦難は敗戦の時まで続いた。牧師達がスパイの疑いをかけられたという事実は、キリスト教徒への社会的偏見と戦時下の監視体制が地方の小都市においても機能していたことを示している。
戦時協力と信仰の自守——二つの現実
| 戦時協力の側面 | 信仰の自守の側面 |
|---|---|
| 託児所を「銃後奉仕」として開設 | 会堂の警防団への使用を断る |
| 「国家総力戦に参加する意味で保育所を経営」 | 断ったことで迫害・スパイ疑惑を受ける |
| 防空壕建設・国旗掲揚塔計画 | 無牧師下でも月一回の礼拝を守り続ける |
▲ 遠軽教会に見られる戦時協力と信仰の自守の並存
史料的意義
▶ まとめ
- 託児所の開設・閉所・再開という経緯は、無牧師・会堂徴用・戦局悪化という困難の中で教会が地域奉仕を続けた実態を示す
- 会堂使用を断ったことによる迫害は、戦時下でも教会としての一線を守ろうとしたことへの代償を示す
- 「スパイのけん疑を受けた」という記録は、キリスト教徒への社会的偏見と国家監視が地方にも及んでいたことを示す
- 「国家総力戦に参加する意味をもって保育所を経営す」という言葉と会堂使用拒否という行動の並存は、戦時下の教会が置かれた矛盾した状況を端的に示している