基本情報
皇紀二千六百年の紀元節(建国記念日)に行われた礼拝の週報。皇居遙拝・国歌斉唱・黙祷(英霊・遺族・皇軍将士のために)が礼拝式に組み込まれている。翌週には近隣教会との合同修養会が予告されており、帰還将校が講師として招かれた。
1937年7月7日の盧溝橋事件から5年目にあたる記念日の礼拝週報。この日は「花の日」でもあり、午後には日曜学校生徒が市内の各病院を訪問し、傷痍軍人9名・一般患者35名を見舞った。
時代背景
1940年は皇紀二千六百年にあたり、全国各地で奉祝行事が行われた年である。宗教団体法はすでに成立(1939年4月)しており、同年4月1日の施行を目前に控えた時期にあたる。教会への国民儀礼の導入は、法的強制というよりも社会的圧力のなかで進んでいった。
7月7日の支那事変記念日礼拝は、日中戦争が長期化するなかで開催された。この年の12月には太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)まで約1年半という時点であり、戦時体制への組み込みが急速に進んでいた時期にあたる。
紀元節礼拝(1940年2月11日)
① 礼拝式への国民儀礼の組み込み
週報には礼拝の順序が記されており、通常の礼拝式の中に以下の国民儀礼が組み込まれていたことが確認できる。
| 国民儀礼の内容 | 備考 |
|---|---|
| 皇居遙拝 | 東方(皇居方向)を向いて礼拝 |
| 国歌斉唱 | 君が代の斉唱 |
| 黙祷 | 英霊・遺族・皇軍将士のために |
▲ 礼拝式に組み込まれた国民儀礼
これらの儀礼はキリスト教の礼拝神学とは本来相容れないものであるが、社会的圧力・行政指導のなかで多くの教会が受け入れていった。遠軽教会でも1939年の元旦礼拝以降(史料06参照)、特別な記念日を中心にこうした儀礼が導入されていった。
② 翌週の合同修養会——帰還将校が講師に
週報の翌週予告欄には、以下の集会が告知されている。
帰還将校を講師として招いた合同修養会。近隣の複数教会が集まる地域規模の集会に、軍人が講師として登壇するという形式は、教会集会の戦時化を示す典型的な事例である。
支那事変勃発五周年記念日の礼拝(1940年7月7日)
① 「花の日」と銃後奉仕の重なり
7月7日は本来、教会の「花の日」(Children’s Flower Sunday)として、子どもたちが花を持って病人や施設を訪問するキリスト教の慣行がある日である。1940年のこの日は、偶然にも支那事変勃発五周年の記念日と重なった。
週報によれば、午後には日曜学校生徒が市内の各病院を訪問し、傷痍軍人9名・一般患者35名を見舞った。キリスト教由来の「花の日」の奉仕活動が、戦時下では傷痍軍人への慰問という銃後奉仕の文脈で行われた。
② 記念日礼拝としての位置づけ
支那事変の勃発記念日に礼拝を行うこと自体が、教会の暦に国家の戦争の記念日が組み込まれていったことを示す。通常の聖書的な礼拝の暦(アドベント・クリスマス・受難週・復活節など)に加えて、国家的記念日が礼拝の機会として設定されるようになっていった。
史料的意義
▶ まとめ
- 皇居遙拝・国歌斉唱・黙祷という国民儀礼が礼拝式に組み込まれた実態を週報という一次資料で確認できる
- 帰還将校を講師とした合同修養会の予告は、教会集会の戦時化の典型例である
- 「花の日」の訪問活動が傷痍軍人慰問と重なった事実は、キリスト教の伝統的慣行が戦時奉仕に転用されていった過程を示す
- 支那事変記念日に礼拝が行われたことは、国家の戦争の暦が教会の礼拝の暦に侵入していったことを物語る